「やりたいこと」と「結果を出せること」のギャップ
――これまでのご経歴を教えてください。
小学校から大学まで16年間野球をやってきて、営業の原点もそこにあります。というのも常に「試合に出るためにはどうするべきか?」を考えていたんです。チームにおける自分の立ち位置を理解し、監督にプレー以外での付加価値を伝えたり、ヘッドコーチがキーマンだと知ればそちらにアピールをするようになったり。大学時代には私自身も学生監督の立場になりましたが、試合に使う選手を決める「決裁者」の視点も得ることができました。「いかに試合に勝つか」「いかにいい選手を獲得するか」を考え続けながら経験した組織改革、戦略設計、勧誘活動――野球で得られたことのすべてが営業の基礎につながっていると思います。
――野球人生の中で営業について学んだ福山さんは、当然社会人としては最初から営業のキャリアを歩まれたのでしょうか。
大学教授になりたいという夢もあったのですが、それを諦め社会に出ることを決断しました。そこから、キャリアの方向性は「社長になる」の一択でした。しかし、すぐに起業できるだけの勇気がなかったため、限られたベンチャー企業だけを受け、中でもいちばん社長への道に近いと思ったサイバーエージェントに入社しました。
ただ、営業にはなりたくなかったんです。というのも、2010年当時のサイバーエージェントは広告事業が売上の大きな柱となっており、その売上をつくり、社内で表彰されている営業の先輩方を見て「この人たちには勝てないな」と感じたのです。営業が強い会社で頭角を現すにはサービスやプロダクトを作るほうが近道だと考え、当時出始めていたスマートフォンのサービスをつくる子会社の立ち上げに内定者時代から参画しました。
――そこから営業の道に方向転換するまでの間に、どのような経緯があったのでしょうか。
サービスをつくってみて、単純に「営業がいないと売れない」ということがわかったのがきっかけです。当初は競合のサービスも少なく、つくれば売れる状態だったのですが、市場環境的にもブルーオーシャンだったため、社内にもどんどん競合が生まれました。同じようなサービスが本社からも10~20くらい出てきて、いよいよ自分で動かないと売れないという壁にぶつかりました。
その際、営業機能を持つグループ内の他社に足を運び「こういうサービスがあるので売ってもらえませんか」と言って回りました。売るという目的ありきで自然にやったことですが、自分がつくったサービスなのでいくらでも喋れるし、話がまとまればクライアントはもちろん、売ってくれたグループの会社も自分たちもみんなハッピーというのが、気持ち良かったですね。
社内でセールス記録を出したこともあり、25歳のときにグループ会社の取締役に抜擢されました。私を抜擢してくれた人から言われて気づいたのは「やりたいこと」と「結果を出せること」のギャップです。つまり、自分はサービスやプロダクトの企画がやりたくてそちらに進んだけれども、結果を出せる領域はそこではなく営業である、と。自分では今も企画が得意だと思っているのですが、人に言わせると違うみたいです(笑)。
――取締役に抜擢されながら2年後に独立したのは、なぜだったのでしょうか?
会社も大きくなりとても楽しかったのですが、そのころに父が62歳で亡くなりました。祖父も60歳で他界していることもあり、もし自分の人生の折り返し地点が近いとしたら、後回しにしていた「社長業」を早くやらなくては、という気持ちになったのです。
やりたいことのひとつが会社のIPOでした。当時は子会社のまま上場することに制約があったため独立し、立ち上げた事業が軌道に乗ったところで、東証一部上場企業に事業譲渡しました。その後、譲渡先の企業とのビジョンが一致したこともあり、あらためて執行役員・取締役に就任しました。経営改革・PMI完了後、自分で立ち上げた事業を引き継ぐかたちで再び独立し、採用向けの動画コンテンツ事業を始めたことが今につながっています。
――最初は採用向けのコンテンツだったんですね。
はい。最初は順調に受注が決まっていったのですが、ちょうど新型コロナウイルスの影響が出始めたころで、企業の採用予算がガクンと減ったのを肌で感じました。一方で、あらゆる業務のリモート化が進む中、オンラインセールスのためのコンテンツ制作に舵を切ると、順調に需要が伸びました。コロナで世の中が止まってしまうという焦りもあり、とにかく需要が伸びている方向にアクセルを踏みましたね。
そんな思いで動いているときに、現職のギグセールスに出会いました。目指すところが私のやろうとしていることに近かったですし、IPOを目指しているという話も一度離れた自分の目標に重なり、M&Aでジョインしました